書評・美術 『十八世紀京都画壇 蕭白、若冲、応挙たちの世界』 辻惟雄 ②


冒頭で述べたように、この本は総論としての面白さはいまいちなのだが、せっかくなので、各論についても、印象に残ったところをメモしておきたい。

個別に取り上げられているのは、順に池大雅、与謝蕪村、円山応挙、伊藤若冲、長沢芦雪、曽我蕭白である。辻先生と言うと名著『奇想の系譜』が有名で、これにより岩佐又兵衛をはじめ、伊藤若冲、曽我蕭白、長沢芦雪、歌川国芳などの「奇想の画家」が脚光を浴びるきっかけとなった。こうした画家に比べると、池大雅や円山応挙などは、いかにも正統派の端正な絵で、ややもすれば退屈なイメージがある。本書では、「奇想の画家」の生みの親である辻先生が、こうした画家の再評価をしているところも興味深かった。

例えば、池大雅の「白隠慧鶴賛 葛の葉図」や「寿老図」といった、非常にユーモラスで形体の面白い作品を取り上げている。彩色を極端に抑えながらその効果を引き出し、流麗な筆致で生き生きと描かれている。

円山応挙については、曽我蕭白の「画を望まば、我に乞うべし、絵図を求めんとならば、円山主水よかるべし」という言葉を何度か引用している通り、《応挙を論じるときいつも使われる「平明」という言葉が気に食わなくて、応挙はどちらかといえば敬遠していた》と述べている。しかし本書では、《だが応挙の絵は、凡庸でもなく平明なだけでもない。美しく、そして立派だ》として、《同世代の弟子たちだけでなく、後世の画家にも規範となる様式を描く立した》本物の《巨匠》であり《マイスター》である、と再評価しているのだ。

応挙がその様式を確立した背景には、《「西洋」の立体把握の方法ー遠近法や陰影法が》を《敏感にキャッチ》し、《日本の装飾屏風の平面性と、西洋の立体的な物の捉え方とを見事に合体させ》たことがあった。「絵は応挙の世に出て、写生といふことのはやり出て、京中の絵が皆一手になつたことじゃ」と言ったのは上田秋成だが、伊藤若冲もまた、西洋ではなく、中国画を通じて「写生」をその絵の中に取り入れた。著者は、若冲のパトロンであった相国寺の僧大典の思想と絵画理論に着目している。大典の思想の背景には、北宋の絵画理論書である『宣和画譜』と老荘思想があり、かつ朱子学の《「格物致知」ー物の理を知ることによって心の理を究めるーという思想》があった。《大典は学問ぎらいの若冲に『宣和画譜』に書いてあることを教え、その実践を課題として与えたのではないかと私は考える》。朱子学のこの精神が、のちに実践・経験主義や博物学への関心に繋がったことは、『江戸の読書会』を読んでもよく分かる。

最後に、すごく個人的な興味を惹かれたエピソード。池大雅と与謝蕪村の合作「十便十宜」は、清の文人笠翁(りゅうおう)が隠れ棲むことの便宜を詠んだ漢詩のうち「十便」を大雅が、「十宜」を蕪村がそれぞれ分担して描いた傑作で、国宝に指定されており、川端康成が家を買うのを諦めてこれを募集した為に、現在では川端康成記念館蔵となっている、というのは有名な話。しかし、当時、この夢の共演を実現させた注文主は、愛知・鳴海の素封家・下郷学海だったと言うのだ。愛知・鳴海というのは、私の義実家のすぐそばで、私も何度も訪れているが、今では名古屋郊外のベッドタウンという感じで、取り立てて何もないところである。こんなところに、現在の日本の至宝とも言うべき作品を、二人の大画家に共作して仕上げさせるようなパトロンがいたとは驚きである。

本書の中では、他にも、曽我蕭白が伊勢旅行に詣でた際に同地方の各所のお寺に作品を残したことや、播州と地縁があり、この地でも幾つか作品を残した可能性について触れている。江戸時代、俳人が各地を放浪したことはよく知られているが、画家たちも時に驚くような僻地まで足を運んでいる。放浪の旅は、芸術家たちにとっての題材集めとインスピレーションの源だったことはもちろんだが、それと同じくらいに「パトロン確保」としての要素も重要だったのではないか。全国に散らばるパトロンとの交流、という観点から日本美術を俯瞰してみたら、面白いんじゃないだろうか。誰か、してみませんか。(他人任せ)

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