書評・小説『ゴールド・コースト』 ネルソン・デミル ①


いやーとにかく面白かった。どれだけ面白いって、「あとがき」を読んで納得。この本の帯「この小説の面白さは類がなくて読めば分かるとしか言えません」というのを読み、「おもしろさを、ずばりひとことで表現してみせるのが、編集者の才能ではないか、編集者の敵前逃亡だ!」と憤慨した鬼編集者が、読後にあっさり前言撤回、「あのコピーはまさしくそのとおりだった」と言って、雑誌2回に渡って魅力を詳述した、というエピソードが、よく表しているだろう。結局、私も、長々と記事を書くことになってしまった。

ネルソン・デミルは、ミステリー小説では有名な作家らしいが、その手のジャンルに全く興味が無い私は、失礼ながら全然名前を知らなかった。この本を手に取ったのは、映画『恋愛適齢期』の記事でも書いた通り、ただただロングアイランドに個人的興味があったからである。

ロングアイランドは、ニューヨーク州の東南部に位置するアメリカ本土最大の島。島の東側に位置する高級別荘地ハンプトンズをはじめ、ハリウッド映画やアメリカのテレビドラマではしょっちゅう取り上げられる場所である。文学作品では、なんと言っても、フィッツジェラルドの『グレート・ギャツビー』が代表作だ。こちらは、ロングアイランドの中でもよりニューヨークに近いナッソーの北端にあたる「ゴールド・コースト」地帯が舞台となっている。本作でも、主人公がギャツビーの舞台を推察するシーンがある。

この海岸を歩きながら対岸のサンズ・ポイントを眺めるとき、いつもF・スコット・フィッツジェラルドのジェイ・ギャツビーのことを思う。ギャツビーの伝説的な邸宅の場所は地元のいろいろな説や文学的評論の対象になっているが、わたし個人はー賛成者も何人かいるーギャツビーの邸はサンズ・ポイントにあるハリー・F・グッゲンハイムのファレーズ屋敷だと思っている。フィッツジェラルドが書いた豪壮な邸宅の描写が、サンズ・ポイントの海岸線と高い絶壁をふくめて、ファレーズ屋敷にそっくりなのだ。・・・そして湾のこちら側、この浜をずっと北へ行った次の岬に、白いコロニアル式の大きな家がいまでも建っていて、わたしはそこがギャツビーのかなわぬ恋の相手、デイジー・ビュキャナンの家だと信じている。デイジーの家の裏にあったという長い桟橋はいまではなくなっているけれど、地元の人たちの話がその存在を裏づけている。そしてギャツビーが彼の邸から入江越しに夜な夜なみつめていた桟橋の突端にゆらめく緑の光ーそう、わたしは夏の夜にヨットからその光を見たことがある。スーザンも見たのだー桟橋がそこで終わっていたと思われるあたりの、水の上に浮いているように見えるすばらしい輝きを。

かように、アメリカ人にとっては、ロングアイランドやゴールド・コーストは、『グレート・ギャツビー』とは切っても切れない関係にある。このゴールド・コーストについて、80年代に書かれた本作の主人公ジョン・ホイットマン・サッターの口を借りて説明するとこうだ。

ここは掛値なしにアメリカじゅうで最高級の住宅地で、これにくらべれば、たとえばベヴァリーヒルズとかシェーカーハイツとかですら、おなじタイプの家がずらりと並ぶ建て売り住宅街に見えるほどだ。都会や郊外のセンスでいう住宅地ではなく、ニューヨーク州ロングアイランドにある植民地時代の村と大荘園の集合なのである。・・・ここは、古い金(オールドマネー)、古い家族、古い社会の美徳、それに、だれにここの土地を所有する資格があるかはいうに及ばず、どの候補者への投票なら許されるべきかについてまで、古い観念が支配する世界である。

そう、この地帯の邸宅は、まさしく「荘園」なのである。歴史的にアメリカに貴族階級は存在しなかったはずだが、そうとしか言いようのないレベルの生活なのだ。作品の前半は、まず、この「ゴールド・コースト」に居住する言わば「ロングアイランド貴族」たちの暮らしぶりについての詳しい描写で成り立っている。

乗馬やハンティングの習慣、特権階級しか入れない「クラブ」の存在、特権階級の中での特殊な社会的序列などなど、日本人の私にはもちろん、大半のアメリカ人も知らない超特殊な世界なのである。

例えば、

地元の伝統のひとつにこういう不文律がある。徒歩で他人の土地を渡れば侵入者。おなじことを馬に乗ってやれば上流社会の人間、というのだ。

つまり、ロングアイランド貴族たちの「乗馬」の慣習の前では、個人の敷地の境界線にこだわることなど些末な無粋なことなのである。小説の中では、主人公の美しく自由奔放な妻スーザンは、お隣の敷地で馬上セックスをした後、素っ裸のまま堂々と野原を横切っていく。

或いは

このテラスにおける社会的序列について興味のある方のために申し上げると、わたしの向かいにすわっているスーザンとサリー、つまりスタンホープ家とグレース家は、大方のアメリカ的基準から見れば、古い金(オールドマネー)の階級だと考えられている。およそ百年ほど前までアメリカ資本というものはあまりなかったからだ。しかし、わたしの隣りにすわっているジムをはじめローズヴェルト一族にとっては、グレース家やスタンホープ家は金のありすぎる成金族なのだ。ローズヴェルト家は悪臭を放つほどの大金持ちだったためしはないけれど、新世界のそもそもの始まりまでさかのぼることのできる家系を尊敬される家名をもち、常時・非常時を問わず国家のために尽くした一族として知られている。少なくとも、スタンホープ家のだれかさんとは大違いだ。サッター家については前にもおはなししたが、わたしの母がホイットマン家のでであることを申し添えておこう。つまり、ロングアイランドの最も有名な詩人ウォルト・ホイットマンの子孫なのである。したがって社会的序列から言えば、ジムとわたしは同格であり、われわれの妻たちは、金持ちで美人でスリムであっても、われわれより一段下に位するというわけだ。おわかりかな?

家柄と資金力は必ずしも等位ではなく、日本でもそのほかの国でも同じようなものだが、よそ者にとっては実にどうでもいい繊細で複雑な社会的序列バランスがあるようだ。

興味がある人にはとても面白いが、興味ない人には少々冗長に感じられるかもしれない。私にとって興味深いのは、こういう世界を扱った小説を、実に多くのアメリカの一般諸民が好んでいる、というその事実だ。ロングアイランドを舞台にした映画やテレビドラマも多いが、アメリカの特権階級的WASPの世界を扱った映像作品も実に多い。

言うまでもなく、これらの作品を楽しんでいるメイン層は、実際に特権階級にいる人々ではないのだ。本物のアメリカ貴族が『ゴールド・コースト』をペーパーバックで買って読んだり、本物のセレブがテレビドラマの『ゴシップ・ガール』を楽しみに待っていたり、生粋のWASPエリート弁護士が『SUITS』や『GOOD WIFE』の続きを気にして仕事が手につかずにいるわけではない。これらの作品は特権階級にはいない人々向けに作られており、なおかつ、特権階級の特権ぶりをあからさまに誇示するような内容になっているのだ。

これは、日本に置き換えてみて考えると、とても奇妙なことだ。日本で、旧財閥や公家絡みの生き残り家系で、資産と縁故で庶民とはかけ離れた生活を謳歌している人たちの生活をドラマ化しても、なんの共感や憧れも得られないばかりか、こんな特権階級が維持されているのは問題だ!と、すぐさま非難の的になるだろう。

けれど、アメリカの庶民は、こういう作品を好んで観るのだ。宗教という観点から、アメリカ社会を鋭く観察した森孝一の『宗教から読むアメリカ』では、

日本のマスコミ、・・・などのメディアが扱っているアメリカは、「大都会のアメリカ」「インテリのアメリカ」「ワシントンDCのアメリカ」であるという点である。そのようなアメリカは、アメリカの一面なのであり、それ以外に、「草の根」の大衆のアメリカがあることを忘れてはならない。

と書かれていて、印象的であったが、通俗的なドラマや映画の鑑賞者はまさしく、「草の根」の大衆なはずである。アジアの果ての日本人庶民の私などは、マリー・アントワネットの生活ぶりを知るのとあまり変わらない好奇心で観ているのだが、彼らは、同じ時代の同じ国の人たちがこんな桁違いな生活をしていることに違和感は無いのだろうか。その眼差しに心からの憧憬だけがあるとは思わないが、「おかしい」「けしからん」という気持ちよりは、興味と憧れの方が勝っているということなのかもしれない。

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