宮下規九朗『聖と俗』を読んでから、もう一度カラヴァッジョをしっかり観たいと思っていたのだが、中々行く機会がなくて、展覧会最終日直前に駆け込んでやっと観てきた次第です。
ヴァロックの先駆者とも言われるカラヴァッジョ、そのヴァロックはローマ・カトリックのプロバガンダから発生したものであると読んで、もう一度、カトリックの「宗教的情熱」の意味とヴァロックとの関係を考え直したかった。
優れた美術史家であったケネス・クラークは、テレビのシリーズ番組として人気の高かった『芸術と文明』のなかで、「いささか浅薄な比較」だと留保条件をつけながら、バロック芸術を二十世紀の映画にたとえている。
たしかに、激しくダイナミックな動きや、人目を驚かすような派手で豪奢な舞台装置や、思い切った明暗の対比の強調によるドラマティックな表現や、芝居がかった表情豊かな身振りや、さらには特別に工夫をこらした細部に興味を集中させるクローズアップ手法にいたるまで、ベルニーニやピエトロ・ダ・コルトーナの芸術には、ハリウッドの制作者たちと共通する面が少なからず認められる。
(略)
ルドルフ・ウィットコウアーは、トレント宗教会議が芸術表現にもたらした直接の影響として、わかりやすさ、写実主義、情動生、の三点を指摘しているが、それらはいずれも、一般の民衆の心を惹きつける為の」基本条件である。話の内容が明快で、その表現はときにどぎついくらい生なましく、しかも理屈より感情に、さらには感覚に訴える効果を重視するというこの特質は、そのまま、ハリウッド映画の性格そのものだと言ってもよいであろう。ただ、ハリウッドでは、それはマモンの神(富)に奉仕するためであるが、バロック芸術においては、真の信仰に使えるものであったという違いがあるだけである。
『芸術のパトロンたち』 高階秀爾
いやー、しかし、実際に観て感じたのは、もはやこれは本当に「宗教的情熱」なのか?「信仰」なのか?というくらい、エログロどぎついものだった。本展覧会の目玉の一つは、本邦初公開というカラヴァッジョ作『ゴリアテの首を持つダヴィデ』(ローマ・ボルゲーゼ美術館蔵)だが、これといい、有名な『バッカス』(フィレンツエ・ウフィツィ美術館蔵)や『横たわる洗礼者聖ヨハネ』(個人蔵)といい、同性愛的少年愛が満ち溢れているではないか。
本展覧会は、カラヴァッジョ作だけではなく、多くのカラヴァジェスキ(カラヴァッジョの影響を強く受けた後継画家たち)の作品を展示していたのだが、そのうちの1人、ピサ出身の画家オラツィオ・リミナルディの『イカロスに翼を取り付けるダイダロス』(個人蔵)などに至っては、白昼堂々こんなの見せてもいいの?ってくらいの作品である。
小児ポルノを厳しく取り締まっているはずの現代の大人達が、顔を赤らめずにこれを眺めている不思議さよ。キリスト様や古典にあやかれば、こんなどぎついエンターテイメントが正々堂々拝めるわけだから、教会に日参するのが楽しみだった男も少なからずいたに違いない。
でも、この時代の人達は大真面目なわけである。こんな作品を教会に飾っておいて、ミケランジェロの『最後の審判』の裸体には一生懸命服を着せていたわけだから。いや、本当にヤバいのそっちじゃないでしょ、と突っ込みたいところだ。
カラヴァッジョと言えば、暴力沙汰、裁判沙汰の絶えない生活を送り、最後には殺人罪を犯して逃亡中に非業の死を遂げるなど、破天荒な人生で有名なわけだが、こういう時代のこういう人たちの感覚を、現代の我々の倫理観や宗教観で分析しても殆ど意味がないのではないか、と思ってしまった。
あと、個人的に一番印象的だったのは、展覧会の一番始めに飾られていた静物画『花瓶の花、果物および野菜』(ローマ、ボルゲーゼ美術館蔵)である。なんでも、作者不詳の「ハートフォードの画家」と呼ばれる作品で、最近では、これをカラヴァッジョの作とする説が浮上しているという。いかにもヴァロック的な「動」の画家というイメージがあるカラヴァッジョだが、彼が描いた静物画『果物籠』(ミラノ・アンブロジアーナ絵画館)は、「イタリア最古の最も美しい静物画」として知られている。「ハートフォードの画家」の静物画は、圧倒的な美しさだった。カラヴァッジョの表現力や技術力の卓越さが慮られて、いつか、『果物籠』の実物も観てみたい、と強く感じた。
【参考】
名古屋市美術館カラヴァッジョ展 出品作品リストはこちら
カラヴァッジョ展 公式サイトはこちら
高階秀爾 『バロックの光と闇』 の記事はこちら
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