書評 『サピエンス全史』 ユヴァル・ノア・ハラリ ①


2011年にヘブライ語によりイスラエルで出版、2014年に英語版が出されてのち、全世界で1200万部以上が出版されているという超話題作を、やっと読んでみました。初版から10年経っているなんて、、、すごい今更感。

『サピエンス全史』とは、またエラく壮大なタイトルをつけたものだとやや鼻白んでいたのも事実だが、確かに、この本の面白さは人間の文字や文明が生まれた有史以降だけでなく、その歴史の間尺を人類が誕生した瞬間、いわゆる「先史」と言われる部分まで、大きく広げたところにあるだろう。そういう意味では、ものすごく目新しいのは、上巻の前半部分だけのような気もする。

面白いと思った点は2つあって、1つ目は、著者が人間の認知革命の最も重要な要素を「言葉」ではなくて「物語」=「虚構を創り出し共有する力」に置いている点である。

だが虚構のおかげで、私たちはたんに物事を想像するだけでなく、集団でそうできるようになった。聖書の天地創造の物語や、オーストラリア先住民の「夢の時代(天地創造の時代)の神話、近代国家の国民主義の神話のような、共通の神話を私たちは紡ぎ出すことができる。そのような神話は、大勢で柔軟に協力するという空前の能力をサピエンスに与える。

効力が持つような物語を語るのは楽ではない。難しいのは、物語を語ること自体ではなく、あらゆる人を納得させ、誰からも信じてもらうことだ。歴史の大半は、どうやって膨大な数の人を納得させ、神、あるいは国民、あるいは有限責任会社にまつわる特定の物語を彼らに信じてもらうかという問題を軸に展開してきた。とはいえ、この試みが成功すると、サピエンスは途方もない力を得る。

だが、彼の考えは間違っていた。じつは、神話は誰一人想像できなかったほど強力だったのだ。農業革命によって、混雑した都市や無敵の帝国を打ち立てる機会が開かれると、人々は偉大なる神々や母国、株式会社にまつわる物語を創作し、必要とされていた社会的つながりを提供した。人類の進化がそれまでどおりの、カタツムリの這うようなペースで続くなか、人類の想像力のおかげで、地球上ではかつて見られなかった類の、大規模な協力の驚くべきネットワークが構築されていた。

歴史上の宗教はもちろん、政治思想から国や民族、経済の仕組みに至るまで、人間の文化と思想は全て「神話」「虚構」「物語」によって支えられており、だからこそ、「神話」「物語」が持つ力というのは絶大なものなのである、ということは、ここ十数年の歴史や文明論の中では特に目新しいことではない。松岡正剛さんがも、『知の編集工学』あたりから一貫して「物語の力」を主張しているし、例えば直近で読んだ経済史の著書『善と悪の経済学』でも、トーマス・セドラチェクは、最古の神話ギルガメシュ叙事詩から掘り起こし、人間の経済思想がいかに「神話」の影響を受けているかを語っていた。(本書の下巻でも、最古の神話としてギルガメシュ叙事詩が取り上げられている)

この本で目新しいのは、その「物語」の特異性が、まさに「サピエンス」を他の生物と差別化した原因であることに着目した点だ。それは、歴史というそれ自体大きな物語の中で、物語の重要性を主張する、という枠組みを超えて、生物学的(或いは先史的)に物語の重要性を語ろう、という取り組みだ。

したがって、認知革命は歴史が生物学から独立を宣言した時点だ。認知革命までは、すべての人類種の行為は、生物学(或いは、もしお望みなら先史学と呼んでもいい)の領域に属していた(私は「先史学」という言葉を避ける傾向がある。なぜなら、先史学には、認知革命以前でさえ、人類は独自のカテゴリーだったという、誤った含意があるからだ)。認知革命以降は、ホモ・サピエンスの発展を説明する重要な手段として、歴史的な物語が生物学の理論に取って代わる。

「サピエンス」の特異性は例えば「言葉」それによる「情報伝達」とか「理論的思考」とかにあるのではない。それらをひっくるめて「物語」を創り出し、共有する力にこそあるのである。これが、「サピエンス」を他の生き物と区別している原動力であり、恐らく、コンピューターが「サピエンス」に追いつけない大きな原因の一つなのだ。(後半部分については、松岡正剛さんの主張を借りているが)

人間どうしの大規模な協力は神話に基づいているので、人々の協力の仕方は、その神話を変えること、つまり別の物語を語ることによって、変更可能なのだ。適切な条件下では、神話はあっという間に現実を変えることができる。(略)このように、認知革命以降、ホモ・サピエンスは必要性の変化に応じて迅速に振る舞いを改めることが可能になった。これにより、文化の進化に追い越し車線ができ、遺伝進化の交通渋滞を迂回する道が開た。

もう一つ、面白かったのは、「農業革命」に対する視点である。一般的には、貧困の差をもたらしたものの、安定した食料供給でより多くの人口を養うことを可能とし、行動な文明の礎を築くきっかけとなったので肯定的に捉えられている「農業革命」を、著者は《農業革命は詐欺である》と言い切る。

小麦はホモ・サピエンスに《素晴らしい生活を捨てさせ、もっと惨めな暮らしを選ばせた》、《より優れた食生活は提供しなかった》し、村落生活は《平均的な人間にとっては、おそらく不都合な点のほうが好都合な点より多かった》。

つまり、各々の人間にとっては農業革命は災難なのだ。ではなぜ、それでも「サピエンス」が敢えてその生活を選んだかと言うと、農業革命により《ホモ・サピエンスが指数関数的に数を増やせた》ので、《サピエンスという種全体》は恩恵を受けるからである。

一つの種の進化上の成功は、DNAの複製の数によって測られる。DNAの複製が尽き果てれば、その種は絶滅する。(略)このような視点に立つと、1000の複製は100の複製につねに優る。これ、すなわち以前より劣悪な条件下であってもより多くの人を生かしておく能力こそが農業革命の真髄だ。

この部分、著者の主張に一から十まで賛同するわけではないが、一つの重要な視座を提供してくれていると思う。「サピエンス」という種の観点からの成功と、人類の「幸福」は一致しない。それでは、人類の「幸福」とは何で、人類は何を目指して発展すべきなのか。「農業革命」を「サピエンス」という種の繁栄という、新しい観点で捉え直す時、非常に重たく解き難い謎が浮かび上がってくる。そして、それは、下巻で改めて問われる「拡大するパイ」という資本主義の幻想や、或いは「消費至上主義」の行き先といった問題に直結していくのである。

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