書評 『西洋美術史を解体する』 白川 昌生


白川昌生さんは、以前、著書『美術・市場・通貨』を読んだが、美術史家の中でも、アートと社会との繋がりを重視する論説に、興味を惹かれた。この『西洋美術史を解体する』は、美術史もまた社会の制度の中で組み立てられたものであり、ヨーロッパ」近代に対する批判、再考、相対化に伴って、新しい視点で再構築されるべきだ、という観点で、大学の講義におけるテキスト的な位置付けとして書かれたものである。

本書によれば、古代ギリシア以来の伝統的分類、リベラル・アーツとそれ以外のメカニカル・アーツという二つの分類に従えば、今日で言う芸術は、どちらかといえば、下位のメカニカル・アーツに属するものと考えられており、それがルネサンス期における自覚をもったアーティストの出現により、上位のリベラル・アーツの領域に向かって地位を上昇させてきた。18世紀のフランスの思想家シャルル・バトゥーはこうした流れを受け、伝統的な「リベラル・アーツ」と実践的実用的な「メカニカル・アーツ」との中間に位置する第三の技術領域として、「美しい技術=美術」(ボザール)という新しい術語を創出した。

中世のアートは「テクニカル・アーツ」であり、その成果が教会芸術であった。(略)信仰、技術、知識の集積体としての聖堂の建設を考えると、支配階級の主導によるにせよ教会芸術は総合芸術でもあり、総合的先端産業、公共事業でもあったといえる。

中世の頃には、美術・芸術はメカニカル・アーツであった。しかしその活動は具体的には、カテドラル建設の中で、建築土木作業と並行して進められていたのである。(略)

ここでは芸術は、明らかに産業であった。ハイ・アートというよりも、先端技術産業と言う方がふさわしいだろう。今日で言うならば、都市、流通、経済、軍事、宗教などをふくみ、かつあらゆる工学やデザインの分野が融合した総合的産業だったと言える。

アーティストの地位が向上するきっかけとなったルネサンス期でも、アートはやはり総合芸術であった。そこには現代がイメージするような「純粋なアーティスト」は存在しない。建築から軍事技術まで提案したレオナルド・ダ・ヴィンチの多才ぶりや、天才ミケランジェロがパトロン向けのインテリアや内装工事の提案まで請け負っていたことからも分かる。この辺りの事情については、やはり技術や経済など社会的観点から美術史を見直した若林直樹さんの著書『退屈な美術史を止めるまでの長い長い人類の歴史』にも詳しく書かれている。

そのような極めてテクニカルでメカニカルなアートから、《美術作品を他から切り離して純粋な対象・価値あるものとして見つめることに慣れすぎている》ような現代の「ハイ・アート」に至るまでの過程を、印刷メディアの発達、オークションによる新興ブルジョワ層の影響力の拡大、帝国主義時代の万国博覧会によるナショナリズムとモダン・デザインの伸長、19世紀末アートから印象派、モダンアートへの発展、などといった観点から順を追って辿っていく。

視覚メディアを支配し、決定していた上の階層の人たちの美意識、所有欲、誇示欲が、当時の美術・芸術のすみずみにまで浸透し、個人では打破しえない身体化された社会制度が強くたちはだかっていたことを考えなくてはならない。絵画と彫刻が美術のヒエラルキーの中で完全に上位におかれるためには、芸術家個人が価値あるものとして社会的に認識されることが必要であり、前近代の社会体制が崩壊していかなくてはならなかった。

新興ブルジョワ階層の圧倒的な支持がなければ、美術は今日のような姿にはなっていなかったかもしれない。(略)近代社会の中で新興ブルジョワ回想が支持した資本主義経済や民主主義社会は、反対の方向性をもつ個々人の自由、個々人の能力の発揮、競争を中心においている。私たちが「美術」というとき、なぜ、個々の美術作品、個々の美術作家、個々の作家の創造性を最初に思い浮かべるのか、ということの根拠がここにあるのだ。 

印象派からモダン・アート、そしてコンテンポラリー・アートへと「ハイ・アート」が模索していった方向性については、末永幸歩さん著『「自分だけの答え」が見つかる13歳からのアート思考』と合わせて読むと分かりやすい。本書では、印象派から出発し、セザンヌ→ピカソ→カンディンスキー→モンドリアン→アメリカ抽象主義と発展していくモダンアートの系譜を、スタンダードな美術史観として挙げている。

モダン・アートは、美術が美術として他の領域から分離し自律することができると信じて、その方向、考え方をつきつめていった。そして、物語、神話、政治、宗教から自らを分離し、何が美術を美術たらしめているのかを考えたあげく、色、形、マチエール、構図等々の要素を探求の中心におく原理主義的な方向へ、自らを純化させていった。しかし、純化も原理も、構造化されたシステムの内部での再生産でしかなかった、つまりそれは超越的、神秘的なことではなく、どこまでも社会制度であった。そのことにはじめて気づいたのはデュシャンだった。その瞬間に、モダン・アートは終焉に向けた段階に入ったのだ。

《資本主義の経済システムは、自己言及型のシステムー自己拡大再生産のシステムである。美術も同じシステムで動いていることに最初に気づいたのがデュシャン》であり、美術には《社会へ向かって発言、提案、活動することが含まれている》ことを最初に喝破したのがデュシャンだった、と著者は言う。そして、ロマン主義的世界観による表現と社会・政治的活動を結びつけたヨーゼフ・ボイスのようなアーティストらによる、「ポスト・モダン」時代、「コンテンポラリー・アート」が展開していく。そこでは、西欧中心主義を否定する新しい視点、《性差、マイノリティ、異文化、植民地、クレオール、精神分析、社会学、環境学、情報工学等々の視点から美術や図版を横断的に見ていく作業がはじまっていく》だけでなく、《モダン・アートが切り捨てた、他者、共同体を取り結ぶ物語の共有、連帯という考えが再び美術の地平へとせりあがってる》。

最後に、各論として興味を惹かれたことをメモしておく。

  • 印象派が台頭した背景には、1860年代にはじまるナポレオン三世統治下での都市開発に伴う土地取引バブルがあった。バブルの中から、新しい投機商品としての美術作品、作家を見出していこうとする野心をもった「画商」が登場し始めた。
  • セザンヌからアメリカ抽象表現主義へ、という、アメリカのフォーマリズム絵画理論を、世界へ向かって実証し、公的に見せる場として「MoMA」は機能した。検証された事実を世界化する装置として美術館、美術史家、美術市場が共同戦線をはる、これはすでに印象派以前に、フランスのサロンで行われていたことでもあった。

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